庭先ではためくのぼり
端午の節句が近くなると、子どもの健やかな成長を願って、武者絵のぼりを庭先に立てる家は多い。江戸時代中期頃より武家社会を中心に普及し、その後庶民に広がった。その様子は歌川広重の浮世絵『名所江戸百景 水道橋駿河台』(1856~58)などに見ることができる。大きなものになると幅3尺(鯨尺で約1.13m)、長さは5間(約9.1m)に及び、長方形の布地に加藤清正、武田信玄、上杉謙信、太閤秀吉といった歴史上に名をはせた勇猛な武将、金太郎など伝説上の人物、魔除けの神として知られる鍾馗様を描いたものが多い。特に男児が生まれると嫁方の実家で用意した。栃木県では市貝町と佐野市が武者絵のぼりの生産地として知られている。
栃木県無形文化財指定された制作
市貝町田野辺の大畑家は、代々武者絵のぼりを制作する家として知られている。初代耕雲の大畑安治が、それまで営んでいた紺屋から際物業に転身したのが1889(明治22)年といわれ、その後、二代耕雲を名乗った力三が、現代に伝わる「大畑家の武者絵のぼり製作」を確立した。さらにその四男として生まれた英雄は、高校卒業後の1965(昭和40)年より力三に師事し、伝統的な武者絵のぼりの製作技法を習得、父とともに武者絵のぼりの制作に従事した。英雄は父の死後、昭和58年に三代耕雲を襲名している。
三代耕雲は、鍾馗を得意とした。大きな布地に一本一本、全身全霊で描きあげた髪や髭、そして眼光鋭い瞳の表情は見る者を圧倒させる。「大畑家の手書き武者絵のぼり製作」は、2015(平成27)年に栃木県無形文化財に指定された。
佐野市は際物(きわもの)の名産地
一方、佐野市は雛人形、掛け軸、幟、羽子板など際物の生産が盛んな地域として知られている。その理由は定かではないが、日光東照宮造営の際に各地より集められた名匠のなかで、佐野に住みついた人が始めたと伝えられている。
デザインを司る多くの図師が佐野に居を構え、その技は秘伝として一族の中でのみ受け継がれていった。赤見の長竹家もそうした家の一つである。初代藤一郎から始まった「佐野武者絵のぼり」は、後に佐野市無形文化財技能保持者となる二代志賀美酬こと志賀利一を経て、金太郎、鍾馗、伊達政宗などをモチーフとした多くの下絵とともに三代目宝泉、長竹敏夫に受け継がれている。
人気の絵柄も変化
日本の住宅事情もあってか、武者絵のぼりを目にする機会は減っている。それでも地方にいくと武者絵のぼりは健在である。しかも、山梨県では武田信玄、新潟県では上杉謙信など地域によって売れ筋の絵柄があるというから面白い。
そして、最近では大型の武者絵のぼりに代わり、ミニサイズの武者絵のぼりがよく売れるという。これは座敷の上、五月人形の隣に飾る。端午の節句の風習は時代とともに変化しているが、子どもにかける願いは、いつの時代も変わらない。
1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。