栃木は下駄の名産地だった
下駄は、足をのせる台歯に鼻緒を取り付けたものである。江戸時代の後半頃から都市部を中心に普及し、昭和時代の中頃にかけて日常の履物として広く使用された。
台歯には桐、杉、朴(ほおのき)といった木や竹、鼻緒には麻などが用いられたが、森林資源に恵まれ、野州麻の生産地である栃木県は、下駄作りの盛んな地域として知られていた。このうち日光市で作られている「日光下駄」と栃木市の「栃木の桐下駄」は栃木県の伝統工芸品に指定されている。
安定性・保温性に優れた日光下駄
日光下駄は、日光山の境内に入る時に使用していた御免下駄を、明治時代の中頃に実用的に改良したものといわれる。最盛期には県内はもとより、東京や京都、大阪のあたりまで出荷された。竹皮で編んだ草履表が木の台に縫い付けてあることが特徴で、夏は涼しく、冬暖かい。また歯は下に向かって広がっている(歯開きがある)ので、安定性に優れている。さらに鼻緒を竹皮に編み込むことで、雪が染みこむことを防いでいる。寒くて坂道が多い日光の風土に適した作りといえる。
後継者の育成に乗り出した日光市
かつて、台は栃木県北西部の栗山地方に自生する朴、榛(はんのき)、カワヤナギなどから作られていた。日光の下駄職人は、現地で7分上げにされた台を購入し、そこに草履表を縫い付けるための穴と鼻緒を通すための穴をあけ、野州麻で作った綴じ紐で草履表を縫い付けた。この草履表も下駄職人が竹皮を編んで作ったものである。最盛期には多くの職人が下駄の制作に携わっていたが、昭和62(1987)年の調査によれば、日光下駄の職人は2人にまで減ってしまった。
日光下駄は、日光市民の心のよりどころである日光弥生祭の必須のアイテムにもなっている。危機感を抱いた日光市では、「日光下駄後継者育成事業」を立ち上げて、後継者の育成に努めてきた。その結果、今日では4名が県の伝統工芸士として認定されている。
気楽に履ける右近型の下駄
日光下駄の形にも変化が見られる。古くは台に二本の歯を付けたものであったが、右近型の下駄も作られるようになった。これならサンダルのような感覚で下駄を履くことができる。
さらに草履表の竹皮に色を付け、あるいは他の伝統工芸品とコラボレーションした日光下駄、例えば台木の側面に日光彫を施したり、鼻緒の布地として結城紬や真岡木綿、間々田紐を使ったりした日光下駄も考案された。
こうした日光下駄は若者だけではなく、外国人も関心をよせている。下駄はいなせな若者が好んで履いていた時代もある。今年の夏は浴衣に日光下駄をあわせてみてはいかがだろうか。
1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。