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百目鬼(どうめき)と「百目鬼通り」にまつわる話

掲載日: 文化と歴史
百目鬼(どうめき)と「百目鬼通り」にまつわる話

百目鬼(どうめき)の伝説

平安時代の中頃の話。ある日の夕方、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が田川の方へ歩いて行くと、白髪の老人が姿を現し、大曽の北西にある兎田という馬捨場(うますてば)で待っていてほしいと告げる。その場所でしばらく待っていると、大きな鬼が現れ、死馬にくらいついた。その様子を見ていた秀郷は、弓を引き絞り、鬼の胸板を射通した。逃げる鬼を追っていくと明神山(みょうじんやま)の後方で倒れ伏したが、体からは炎が吹き出し、口からは毒気を吐き出していたので、とても近寄れる状態ではなかった。翌朝、秀郷がその場所に行ってみると、鬼の姿はなく、焼け野原が広がるのみであった。

それから400年ほどが過ぎ、塙田村の本願寺に住職が定住すると、火事がおこったり、怪我人がでたりする事件が相次いだ。そのため住職をおかない時代もあったが、知徳上人(ちとくしょうにん)という住職がこの地を訪れ、説教をはじめたところ、毎日姿を見せる女性がいる。上人がその女性の正体を見抜いて問いただすと、その昔、自分は秀郷に退治された鬼で、長岡(ながおか)の岩山で傷の治療をしていたが、傷が癒えたので、昔の力を取り戻そうと毎日この地にやってきては流した血を吸い取っていた。寺に住職がいると邪魔なので、火をつけたり人を傷つけたりしていた。しかし、説教を聞いているうちに上人を寺から追い出せなくなった。

その後、鬼は角を折り、指の爪を取って寺に置いていった。そして、人々はこの付近を百目鬼(どうめき)と呼ぶようになった。本願寺には次のような話も伝わる。昔、顔に100ほどの「ほくろ」がある大男が長岡に住んでいた。その風貌から人々は百目鬼と呼び、近寄るものはいなかった。孤立した男は、村の田畑に危害を加えるようになり、ますます村人から恐れられた。その後、本願寺に通って仏門に帰依したところ顔の「ほくろ」が消え、鬼のような爪も抜け落ちた。

他にも百目鬼は、100匹の鬼の頭目であったという話も伝わる。藤原秀郷は、平将門を倒した人物であるが、『俵藤太伝説』では三上山(みかみやま)の大百足を退治した人物としても知られている。武士(もののふ)の象徴として認知されていたのだろう。そして、舞台となる大曽は県庁の東側一帯の地域で、明神山は宇都宮二荒山神社、長岡の岩山とは長岡百穴のことである。

今も残る「百目鬼通り」

県庁前通りから一本南側の通りは「百目鬼通り」と呼ばれ、百目鬼の伝説をしのばせる。官公庁やビジネス街に近いことから居酒屋などが軒を連ね、賑わっていた時期もあったという。県庁前通りには、つい最近まで本願寺も存在した。

現在の百目鬼通り。

伝説には、それに関連する塚や岩、植物などが存在する。そして「百目鬼通り」のように地名として受け継がれているものもある。史実としては眉唾(まゆつば)ものだが、何世代にもわたって伝えられてきたことは、歴史のひとこまとして評価すべきであろう。宇都宮だけでも数多くの伝説の地がある。埋もれた伝説を再発見してみるのも楽しいかも知れない。

長岡の百穴(宇都宮市長岡町)。7世紀の初め頃に作られたと推定される古墳群。
ふくべ細工は、宇都宮の伝統工芸品である。ユウガオの実に顔を描いた。百目鬼がモチーフとされる。

百目鬼を裏付ける証拠を公開

本願寺は、伝承によると正中2(1325)年に禮智阿上人(らいちあしょうにん)により開山された。寺には、その禮智阿上人の筆と伝わる「百目鬼之姿絵」、百目鬼が残した爪、数珠が残る。

百目鬼の存在を裏付ける証拠として、大切に保管されている。これらは、栃木県立博物館第132回企画展「異界~あなたとふいにつながるせかい~」(令和4年4月23日~6月15日)のなかで特別に公開されている。この機会にご覧いただきたい。


篠﨑茂雄

1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。

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