陶器、漆、染色、書、服飾小物等、各月で多彩な”美しい手しごと”に触れていただけるギャラリー、「HANNA」を運営。毎月1回のペースで企画展を催しています。
http://galleryhanna.com/
アニメーターの宮崎駿さんが戦時中に疎開していた住まい
宇都宮市の中心地にある閑静な住宅地の路地の行き止まり。そこに建つ一軒の日本家屋。年月を経た風格のあるそのたたずまいに、まるで昭和初期にタイムスリップしたかのような感覚を覚えます。ここは映画監督でもあり、アニメーターの宮崎駿さんが戦時中に疎開していた住まいで、現在はトーマスあす子さんがギャラリーを営みながらお住まいになっています。築90年ほどになるこの家との出会いから、この家での日々の暮らしを伺いました。
老舗旅館のようなたたずまいのギャラリー
築90年ほど経つ風格ある日本家屋のギャラリー絆和(HANNA)。その暖簾をくぐって現れたのは、トーマスあす子さん。ここにギャラリーと住まいを構えてもうすぐ10年になるそうです。毎月の展示会やワークショップ、教室などを開き、日々、企画や運営を精力的にこなすあす子さんですが、じつはこの家に出会うまでギャラリーをオープンしようとは思っていなかったというから驚きです。話を伺うと、まさにこの家があす子さんを待っていたかのようなそんな出会いがありました。
この家との出会いが人生を変えた
今からちょうど10年ほど前、トーマスあす子さんは夫とともにマンション暮らしをしていました。だんだん手狭になってきたこともあり、新たな住まいを探していたところ、知人からこの家を紹介されました。「単に、古い家なら広くて価格が安いんじゃないかと思ったんです」と言います。
そこで気軽に見に来たのが最初の出会い。第一印象を聞くと、「二人で住むには広すぎる!」。しかし、中を見せてもらうと、「パーツがいいなと思ったんです」。暮らすには大きいと思いながら、大家さんに会ってみることに。すると大家さんの口からぽろりと「何か文化的なことに使ってほしい」という言葉が出ました。続けて「たとえばギャラリーとか…」と。あす子さんは驚いたそうです。
「今、思うととても不思議なんです。大家さんは私のことは何も知らなかったんですよ」。
じつは当時、あす子さんは別のギャラリーに勤めていて辞めたばかり。あす子さんの実家もギャラリーを経営していることからギャラリー運営の知識はありました。
「たしかにできなくはないなと。でも失敗したらどうしようって踏み切れなかったんです」。
そんなときに背中を押してくれたのが夫のベンジャミンさん。「やってみたら?失敗したら戻るだけじゃない? その夫の言葉に、そうか、戻るだけかって思えたんです」。まるであす子さんを待っていたかのような家との出会いでした。これをきっかけに、ギャラリー絆和が生まれることになりました。
古い家の価値を見直す
この家に住みながらギャラリーを開くことを決意したあす子さん。しかし4年間、住み手がいなかった家は、どの部屋も物置になっており、埃にまみれていました。最初に古くなった畳を替えようと思い、畳屋さんを呼んだところ、「この畳は手縫いで非常に貴重なもの。博物館に展示してもよいくらいですよ」と言われたそうです。全室、畳変えをすれば費用もかかります。
「この家に普通の畳は入れられないし、もうこの貴重な畳は手に入らないんだと思ったらどうしようかと。結局、業者さんに洗浄してもらってそのまま利用することにしました」。
見れば、畳はところどころ歪んだところがあるものの、表面にささくれもなく、きれいな状態。洗浄してもらうと、部屋はさっぱりときれいになり、見違えるようになりました。畳以外もこの家は貴重な文化財のような宝物がたくさんあります。二段鴨居、組子の建具、結霜ガラスなど、今では手に入らない、もしくは作る職人さんがいないという貴重な宝物でいっぱいです。あす子さんはそのひとつひとつの価値を大切にしていこうと思いました。
空間を生かすこと
あす子さんのギャラリーは2年先まで企画が埋まっています。常連のお客様も多いそうですが、その魅力のひとつは居心地のよさ。年月を経た家ならではの静かで落ち着いた空間、ゆったりとした雰囲気がとても心地よく、このギャラリーにいるとなんとも贅沢な時間が過ぎていきます。
また、訪れるたびに変化するレイアウトやインテリア。その空間デザインが、来る人の楽しみになっているようです。ギャラリーでは焼き物、衣類、絵画…と、毎回展示するものは変わりますが、「こうして空間をつくることが私は好きなんだという発見がありました。お客様の目線を考えながら毎回、チャレンジしている感じです」。空間づくりのポイントをお聞きすると、「ピカピカした家具や物は置かないようにしています。プラスチック製品や大量生産される既製品はこの空間に合わないんですよね」とのこと。
たしかに、この風格のある空間には新品の家具や派手な色のもの、プラスチック製品は置けないでしょう。あす子さんがこの空間を愛おしみ、大切にする気持ちがとても伝わってきます。ひとつひとつの作品がとても価値あるものに感じられるのも、この空間があってこそ。作品がここに飾られることにより、空間も作品も互いに存在感を引き立たせているようです。
陰影のある家
この家は戦時中に宮崎駿さんが住んでいたことで知られていますが、数年前に宮崎さんご本人が訪れ、お話しする機会があったそうです。
「この家は陰影がいいんですと宮崎さんがおっしゃって、私も実際にそう感じていました。日によって、時間によって陰影が変わるのですが、その光の入り方がとてもきれいで、薄暗いところもいいんです。昔の家だから、何か住んでいる感じもするじゃないですか(笑)。それも嫌なものじゃなく、本当に自然な感じで」
たしかにここにいると家が呼吸しているよう感じられます。いまはあす子さんによって眠っていた時が動き、家が喜んでいる、そんな気がしました。
時を過ごす楽しさ
コロナの感染予防で自粛を余儀なくされた日々。その期間、あす子さんは庭の手入れをしていたそうです。広い庭園には松や椿をはじめ、木々が何本も植えられており、庭師に年に一度は手入れをしてもらっているとのこと。広い庭は草をむしるだけでも気が遠くなるような作業時間だと思います。
「でも少しずつきれいになっていって、庭に出る時間も楽しみになっていくんですよね」
この庭にいると心身がほどけていくような開放感を感じます。森の中にいるかのような静けさ、響く鳥のさえずり、日々成長していく草木。庭にいると、いつしか時が経つのも忘れてしまうのも納得です。
古い家に暮らすこと
古くて広い家は、冬は寒いし、手間もかかります。現代の高気密・高断熱の一年中、快適な住環境の住まいと比べたら、大変なことも多いことでしょう。
でも、あす子さんのお話を聞いていると、暮らしの豊かさについて考えさせられます。もう今や、手に入らないものに価値を見出し、愛着をもって暮らしていくこと。四季の移ろいに合わせて住まいに手を加えていくこと。その日々が、あす子さんの暮らしを彩り、楽しさをつくりだしているのだと思いました。