
家で生まれる命
今日、出産は産科医がいる病院などで行われるが、昭和30年代頃までは自宅で出産した人も多かった。その場合は産婆、それ以前はトリアゲバアサンなどと呼ぶ経験豊かな女性がお産に立ち会った。産婆との関係は、それ以降も続くので、70代以上の方であれば、どの産婆にとりあげてもらったのかが話題となることもある。そして、親、子、孫の3代にわたって同じ産婆に世話になった家も珍しくなかった。
出産の儀式と安産祈願
古くは天井から吊した綱につかまって、明治時代から昭和時代初期頃になると座産と呼ぶ状態で出産していた。座産とは、こたつやぐらなどによりかかり、中腰の状態で出産するもので、産婆が後ろから妊婦を抱きかかえ、腹をおさえて介添えした。
部屋は家の奥まったところにある納戸があてがわれ、出産が近くなると納戸の畳を一畳あげて、その上をボロ布や油紙で覆った後、普段使っている布団を敷いた。そして、陣痛が始まると安産祈願の御札を天井に貼ったり、十九夜講でもらってきた蝋燭に火を灯したりした。男は産部屋には入れず、湯をわかすことが一番の仕事であった。
産湯と産着に込められた願い
臍の緒は、竹べらや麻糸などで切った。「大病をしたときに煎じて飲ませると病気が治る」といわれ、桐の箱などに入れて大切にとっておいた。そして、たらいにはった湯で赤ん坊の汚れを落とした。この湯を産湯という。
産湯は、「この世の人となる」ための禊でもあり、偉人の産湯伝承が強調されたり、「帝釈天の産湯につかり」という決め台詞が見られたりするのは、産湯が特別な水であることを現在に伝えている。
なかでもミツメと呼ぶ生後3日目に浴びる湯は特に重要視された。この日、赤ん坊はきれいに洗われた後、初めて袖のある着物を着せられる。この着物を産着という。
麻の葉模様のものが好まれ、男なら青、女なら赤、黄色ならば男女どちらでもよいとされた。麻は、まっすぐに育ち、かつ丈夫な植物であるが、産まれてきた子もそのように育って欲しいという願いが込められたものである。そして背中には魔除けの模様や御札などをつけた。

かつて乳幼児の死亡率は高く、いつあの世に呼ばれてもおかしくないと考えられていた。そのため、「人間」の証でもある袖のある着物を着せ、目が届きにくい背中には護符をつけて、無事成長を願った。
こうした出産にまつわる言い伝えは、医学の進歩とともにうすれてはきているが、注意深く見ていくと、その名残は随所に見られる。

1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。
