病気平癒を祈願する薬師寺
薬師寺といえば、ほとんどの人が奈良の薬師寺を思い浮かべるだろう。奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山で、南都七大寺の一つ。1998(平成10)年には「古都奈良の文化財」の構成要素の一つとして世界文化遺産に登録された。天武天皇が、皇后で後の持統天皇となる鵜野讃良(うののさらら)の病気平癒を祈願して建立したもので、幾多の戦火や災禍を免れた東塔は、奈良時代の建築様式を現在に伝えている。
仏教文化を象徴する名刹、下野薬師寺
これとほぼ同時期、下野国(現在の栃木県)にも薬師寺が創建された。下野薬師寺である。自治医科大学の一帯には現在も「薬師寺」という地名が残る。
下野薬師寺の縁起によれば、白鳳8年卯年(679)に沙門祚連(それん)が天武天皇の后である持統天皇の病気平癒を願って、この地に堂宇を建立し、薬師如来を安置した。広く知られるようになるのは、天平宝字5(761)年に鑑真和上によって戒壇院(かいだんいん)が建てられてからである。戒壇とは戒律を授けるための場所であり、僧侶となる者が修行する場をいう。東国で唯一設置されたのが下野薬師寺で、奈良の東大寺、筑紫(現在の福岡県)の観世音寺とともに天下三戒壇と称された。
下野薬師寺の変遷
下野薬師寺からは日光山を開山した勝道をはじめとする数々の高僧が輩出され、また孝謙天皇の寵愛を受け、後に失脚した道鏡(700?-772)が下向した地としても知られている。
嘉祥元(848)年の『続日本後紀』には、「体制巍々(ぎぎ)として、あたかも七大寺(東大寺や法隆寺など奈良にある七つの大きな寺)のごとし」と記されており、日本屈指の大寺院に発展していたことがわかる。平安時代に一時衰退したが、鎌倉時代に再興を果たし、南北朝時代には足利尊氏によって安國寺と改称された。
その後の度重なる火災や戦乱によって、伽藍の多くが失われたが、昭和41(1966)年より発掘調査が行われ、その全貌があきらかになりつつある。
栃木県立博物館で特別企画展を開催
栃木県立博物館では、9月17日から10月30日まで開館40周年特別企画展として「鑑真和上と下野薬師寺~天下三戒壇でつながる信仰の場~」を開催する。
唐招提寺や下野薬師寺が所蔵する国宝・重要文化財を含む約150点の資料から古代の下野を紹介する。東の辺境の地であった栃木に大寺院が建立され、仏教文化が栄えていたことは興味深い。古代のロマンに思いを馳せて、展覧会をご覧いただきたい。
1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。