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復活した「徳次郎(とくじら)町」

掲載日: 文化と歴史
復活した「徳次郎(とくじら)町」

「とくじろう」から「とくじら」へ

徳次郎は、宇都宮市の北西部に位置する集落である。昭和の半ばから平成にかけては「とくじろう」とも呼ばれたが、令和3年(2021)年3月1日より「とくじら」に改められた。

地名の由来には諸説あるが、宝亀9年(778)に日光の久次良(くじら)氏の一族が、御神体を日光山神社(現日光二荒山神社)から千勝(ちかつ)の森(現智賀都神社)に勧請し、「外久次良」と称したことによる。

智賀都(ちかつ)神社。旧郷社。徳次郎六郷(上徳次郎・中徳次郎・下徳次郎・門前・田中・西根)の鎮守として信仰される。鳥居両脇に生えるケヤキは、樹齢700年といわれ、栃木県指定天然記念物。

さまざまな漢字があてられた「とくじら」

「日光の外側の久次良」にあるから「そとくじら」、転じて「とくじら」である。また、日光の男体山頂で発見された貞治3年(1364)と同5年の禅定札には「(前略)得志良近津宮伴四郎大夫家守(後略)」と刻まれ、これが「得志良」の根拠とされる。室町時代や戦国時代の文書をひもとくと「外倶示良」「得次郎」「外鯨」などの文字も見え、いろいろな漢字があてられていたようだ。

上・中・下に分かれ、栄えた宿場

「徳次郎」と書かれるようになったのは戦国時代で、『宇都宮記』には宇都宮国綱(1568~1607)の家臣として「徳次郎城主新田徳次郎」の名が見える。江戸時代になると「徳次郎」の名は定着し、文化3年(1806)の『日光道中分間延絵図』には、上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の様子が描かれている。この頃の徳次郎は上・中・下に分かれ、『宿村大概帳』(天保14年(1843)以降成立)によれば、3宿併せて本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋72軒を数える宿場として栄えていた。

『日光道中分間延絵図』第五巻(復刻版)(部分)。東京美術より転載(原資料:東京国立博物館)。左が日光方面。上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の文字が見える。画面中央の森(千勝の森)に智賀都神社がある。

宇都宮市に編入される際に表記を変更

明治に入り、明治22年(1889)までは徳次良宿(この頃は徳次郎、徳二郎とも表記された)、その後富屋村に編入となり「河内郡富屋村大字徳次郎(かわちぐん・とみやむら・おおあざとくじら)」となった。その富屋村が昭和29年(1954)11月1日に宇都宮市に編入され、宇都宮市徳次郎町となる。その際に「とくじろうまち」と告示されたので、これ以降、町の正式名称は「とくじろう」となった。それでも地域の人々は慣れ親しんだ「とくじら」を使い続けていたが、公的な施設や看板には「とくじろう」と表記されるようになった。

住民の思いで「とくじら」の呼称が復活

令和に入ると、冨屋地区の住民から「とくじらの呼称を復活させたい」という機運が高まった。宇都宮市に対して「町名変更の要望書」が提出され、関係行政機関職員、学識経験者、臨時委員(地元自治会)などからなる住居表示等審議会のなかで検討されることになった。

同審議会では「とくじら」に戻すことを市長へ答申、その後、宇都宮市議会に町名変更議案が提出され「とくじらまち」とすることが可決された。

徳次郎交差点の表記も「とくじら」に改称された。

全国的にみても稀なケース

筆者は、この住居表示等審議会の会長として審議にあたった。「徳次郎」という地名のユニークさもあり、メディアやネットから大きな関心が寄せられたことを覚えている。町の呼称が変わるのは珍しいことではないが、元に戻された例はほとんどない。したがって、徳次郎(とくじら)への改称は全国的に見ても希なケースといえる。そこには、自分が住む地域や地名に愛着を持つ市民の姿を見ることができる。

智賀都神社祭礼。3年に一度、8月1日に行う。江戸から明治時代に作られた6台の彫刻屋台が神社に集まる。徳次郎地区の人々の結束を高めている。

篠﨑茂雄

1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。

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