さくら市(旧氏家町)をご紹介します
カメラマンBONのとちぎ散策、第2回はさくら市。私の人生で2番目に長く住んだ場所、さくら市。さくら市の「旧氏家町」と呼ばれるところを散策しちゃいます。
今宮神社から堂原地蔵堂へ
スタートは、ほぼ毎日お参りしている今宮神社。国道4号線からも大きなイチョウが目につきます。
そこから宇都宮方面に走っていくと「将軍地蔵」がある、堂原地蔵堂があります。
そのお堂の前に、将軍地蔵と呼ばれるお地蔵様があります。そのお地蔵様にはすごい別名があります。その名は『そうめん地蔵』!
そうめん地蔵の言い伝え
昔々、氏家の万願寺から、お坊さんが日光山にお参りに行きました。お参りの帰りにお腹がすいてしまいます。途中にあるお寺にお邪魔して「そうめんを一杯だけ食べさせてもらえないでしょうか?」とお願いします。
それを聞いた意地悪な山伏はそうめんをメガ盛りで持ってきます。お坊さんはお腹いっぱい食べますが、当然、全部を食べきることはできません。しかし、山伏はそうめんを残すことを許さず、無理やりそうめんを口に流し込みます。お坊さんは死んでしまいます。
後日、その山伏のところに別のお坊さんが現れて、そうめんを食べさせてくれと頼みます。また来たかと山伏がギガ盛のそうめんを出すと、そのお坊さんはぺろりと平らげて「もっと食べたい」といいます。驚いた山伏は寺にあったそうめんすべてをゆでて出しますが、お坊さんはいともたやすく平らげます。
意地になった山伏は日光中のそうめんをかき集めて出しますが、すべて平らげ、もっと食べたいといいます。山伏はもう勘弁してくださいと謝ったところ、そのお坊さんは地蔵になって消えてしまします。驚いている山伏のところに、日光の人々が、川がそうめんでいっぱいになっていることを伝えます。それは死んだお坊さんの仇を取るために山伏のところに現れた万願寺のお地蔵様でした。
インパクトがありすぎるお話です。昔話や看板の説明書きだと「お坊さんは気絶した」とありますが本当は(本当ってどこまでが本当なのか……)、死亡してしまったそうです。後にも先にも私の知る限り、食べすぎて死んだ話は、そうめん地蔵と映画セブンの大食の罪で死んだ人だけです。このお話から日光輪王寺の「強飯祭」が生まれたり、「素麺谷(そうめんだに)」という地名ができたらしいです。
静岡県の浜松市にもそうめん谷?
調べてみると静岡県浜松市にも「そうめん谷」があるみたいですが、こちらは徳川家康が戦に負けて空腹だったところ村人がそうめんをごちそうしてくれて、それが大変おいしかったことから名前がついたそうです。同じ名前でも経緯はまったく真逆で面白いですね。
浜松の地名で面白かったのは、家康のエピソードで、三方ヶ原の戦いで武田軍から敗走する途中、空腹になり、茶屋で小豆餅を食べていたら(呑気すぎる!)武田軍に追いつかれ(当たり前ですね)、金も払わず逃げた家康を茶屋の老婆が追いかけて(俊足すぎる!)、餅代を回収したエピソード。そこから「小豆餅」と「銭取」という地名がついたのは有名です。
見どころがいっぱい!勝山城跡
話はだいぶ脱線しましたが、「将軍地蔵」から近くの勝山城跡へ。勝山城は宇都宮朝綱の三男、氏家公頼の城で、別名を氏家城。氏家姓で有名なのは美濃の斎藤道三の家臣で美濃三人衆の筆頭、「氏家卜全」です。ちょっと興奮しますよね。
城跡としては土塁と空堀が綺麗に残っていて見応え十分!日光連山と鬼怒川を見渡せます。ここには昔、釜ヶ淵という場所があってそこを舞台とした逸話がいくつかあります。
さて、城跡をぐるりと回ってお腹がすいたのでそうめんを……。いやいや、昼食にします。
モチモチとしたやさしい味の氏家うどん
調べてみるとさくら市には氏家うどんと呼ばれるものがあるみたいです。さくら市氏家は小麦の産地で「イワイノダイチ」という品種がうどんに適した中力粉になるらしく、十数軒ほどのお店で提供されているようです。その中の一軒、「割烹桔梗」で氏家うどんをいただきます。
天ぷらうどんを注文しました。最近は、讃岐系のコシが強いうどんが多いですが、氏家うどんはモチモチとしたやさしいお味のうどんです。ダシも絶品でおいしかったです。お店の方のご好意でイチヂクのワイン煮をデザートでいただきました。美味しくて写真を撮り忘れましたが……。
この取材、駐車場を気にしたりするのが面倒でバイクで移動することが多いのですが、12月も半ばですとユニク〇のヒート〇ックではなく、自前のミートテックを着込んだ私でも寒さを感じるので秘密兵器の電熱ジャケットとパンツ(バイクとつなぐと電熱であったかくなる人をダメにする装置)を着込んで移動しています。しかし、暖房の効いた店内で、あったかいうどんを食べると汗が止まりません。
お店の方が最近鉄板焼きも始めたとのことで鉄板ルームも見せていただきました。
見事なお座敷!瀧澤家住宅
割烹桔梗であたたまった私は、次の目的地「瀧澤家住宅」へ向かいます。
鐵竹堂は、明治33年に瀧澤喜平治によって建設された客殿で、当時、京都から木造建築の名人を呼び、3年間住み込みで建てられたものです。その名前は、喜平治の雅号「鐵竹」から名付けられといいます。現在では手に入らないような木材を使い、ていねいに組まれた建物は、本当に見事で、貴重な文化財だと思います。
明治25(1892)年の陸軍大演習の際に、明治天皇の小休所となった瀧澤家ですが、再度の行事に備えて鐵竹堂が建てられたらしいです。
玄関もとても立派です。金の屏風が目を引きます。
瀧澤家の収集品のこぼれ話
係の方といろいろと話を聞いていたら、とても素敵な家具があり、「こちらも瀧澤家所有のものなのですか」と聞いたところ面白い話を聞けました。
大東亜戦争の末期に日本でも有数の中国骨董の収集家だった瀧澤家。蔵座敷だけには収まりきらず、大きな蔵を増築するほどです。しかし、終戦後、住人が母屋で寝ている間に一夜にして蔵の中の中国骨董品がすべて空に……。
そして、庭にポツンと1個だけ残っていたのがこのチェスト(?)。持ち出しきれなかったのか、お情けに一つだけ残したのか?謎です。その後、盗まれた品々は表舞台に出てくることはなかったそうで。
誰が、何のために、どうやって盗んだのか?中国骨董の収集家が人を雇い、コレクションとして所有しているのか?窃盗団がうまいこと盗んでうまく捌いたのか?もしかすると国家の美術品を取り戻すために中国が綿密な計画のもと蔵を……。などなど推理が止まりません。
リサイクルショップで掘り出し物を探す
ここに書いたのはあくまで聞いた話ですが……。骨董品と聞いて、少し前から狙っていた中古品を思い出して近くのリサイクルショップへ。
絶品コーヒーを味わいたい人におすすめ!
今回の散策を締めくくるのは氏家駅近くの喫茶店「木曜館」。コーヒーの知識がない私は、的確な感想がいえないのですが、美味しいことは間違いないです。
さて今回の氏家散策、いろいろと発見があってとても楽しかったです。
1975年、栃木県大田原市で生まれる。中学生の時に親にカメラを買ってもらい、うまく撮れないことが悔しくて写真を撮り続ける。次第にカメラと写真の魅力に取り憑かれる。高校生になって憧れの写真部に入る。大会などにも参加して部長の地位を獲得。この頃には運動も勉強もできない私が進む道はカメラマンしかないと思い込む。高校を卒業し上京、東京ビジュアルアーツ写真学科へ。2年後、ギリギリの成績で卒業。その後、栃木県に帰り、印刷会社や写真スタジオのカメラマンを経て、2012年にフリーランスに。雑誌、企業広告、建築物、料理、商品撮影など、たくさんの人に支えていただき、今日もどこかで撮影中。