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文化と歴史

知名度高い「日光」の由来

掲載日: 文化と歴史
神橋。

観光名所の日光

「日光を見るまで結構ということなかれ」という言い回しは全国に知られている。関東地方の小・中学校では「日光」が修学旅行の定番であり、毎年600万人もの観光客が日光を訪問する。そのためか地域イメージ調査によれば、下位に低迷する「栃木県」とは裏腹に「日光市」の知名度は常に上位である。現在、地元では相次ぐ高級ホテルの進出に加え、自動車のご当地ナンバー「日光」の導入の話題で盛り上がっている。

ところで「日光」の呼称は、いつ生まれたのだろうか。

日光の歴史

日光の歴史は、天平神護2年(766)、勝道上人が補陀洛山(男体山のこと)の登頂を志し、大谷川を渡って四本龍寺を創建した時に始まり、この時に作った橋が「山菅の蛇橋」こと、現在の「神橋」と伝えられている。

『性霊集(しょうりょうしゅう)』によれば、勝道が山頂を極めたのは、天応3年(782)のことで、中禅寺湖の湖畔に神宮寺(現在の中禅寺など)を建立、さらに数々の祠を山頂や山麓に祀り、これ以降日光は山岳信仰の拠点として広く知られるようになった。

勝道上人像。

二荒山、日光の名前の由来

地名のおこりは、この補陀洛山が語源といわれる。補陀洛とは観音菩薩が降臨する場で、インドの南端の海岸にある八角形の形状をした山とされる。当時の修験者は、男体山を「補陀洛山(ふだらくやま)」に見立て、それが「二荒山(ふたらさん)」に、さらに二荒山の音読みである「にこうさん」が「日光山」に変化して、「日光」と呼ぶようになったという。また「二荒」の名前の由来には、他に男体山と女峰山の二つの山に男女二神が現れた「二現山(ふたあらわれのやま)」が転訛して二荒山になったとする説、男体山の山麓の洞穴から年に二度雷鳴と暴風が生じたことから「二荒山」の名称が生まれたとする説もある。そして、「二荒」に「日光」の字を当てたのは弘法大師であるともいわれている。

大治4年(1129)の「二荒山一切経」の奥書がある大般若経には「日光山」の名称が明記され、そこからも「日光」の地名の歴史を遡ることができる。

男体山と中禅寺湖。

皇族や外国要人の避暑地に

日光は、古代から中世までは山岳修験の聖地として、近世になると日光東照宮や大猷院などに代表される徳川家の霊地として日本の歴史や文化をリードした。そして近代は皇族や外国要人の避暑地として全国に名を轟かせた。その様子は、田母沢御用邸やイタリア大使館、イギリス大使館などに見ることができる。もちろん中禅寺湖、華厳滝、戦場ヶ原など自然の宝庫であることは言うまでもない。地元に住んでいると、いまさら日光と思うかも知れないが、とても奥が深いので、訪問するたびに新たな発見があるだろう。

日光田母沢御用邸。

薬師寺とのつながり

栃木県立博物館では、令和4年10月30日まで「鑑真和上と下野薬師寺-天下三戒壇でつながる信仰の場-」を開催している。下野薬師寺と日光山とのつながりは深く、本文にも紹介した『性霊集』(国重文・武田科学振興財団杏雨書屋蔵)、男体山頂出土品(国重文・日光二荒山神社蔵)、勝道上人像(国重文・輪王寺蔵)、日光山縁起絵巻(輪王寺蔵)なども展示している。この機会にご覧いただきたい。


篠﨑茂雄

1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。

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