
一日の疲れを癒やすお風呂は、今や私たちの暮らしに欠かせない存在です。けれども、スイッチ一つでお湯が沸く時代になるまで、風呂には家族みんなの手間と知恵が詰まっていました。栃木に残る昔の暮らしをたどると、お風呂は単に体を洗う場所ではなく、家族の営みや農村の暮らしを映し出す大切な空間だったことが見えてきます。
蒸し風呂から始まった、日本のお風呂文化
日本人ほど風呂好きな国民はいない。しかし、自宅に風呂を設置して、毎日風呂に入るようになるのは最近のことである。よその家に風呂をもらいに行く「もらい風呂」の風習は普通に見られたし、昭和の名曲「神田川」には、三畳一間という当時の住宅事情が描かれている。
風呂は仏教の伝来とともに中国から伝わったとされるが、そもそもは蒸し風呂であった。国の重要有形民俗文化財になっている山香の石風呂(大分県)や久賀の石風呂(山口県)は、石室の中で柴を燃やし、熱くなったところに水をかけて、その蒸気で体を温める施設であった。そこに薬草を混ぜると、薬効成分を含んだ蒸気にもなる。風呂というよりサウナに近い。
五右衛門風呂が語る、昔の栃木の暮らし
現在の風呂に近いものに五右衛門風呂がある。かまどを築いて鉄の釜を乗せ、木製の底板をつけたもので、その板を足で踏んで湯につかる。踏み外して鉄に直接体がふれると、とても熱い思いをする。五右衛門風呂での失敗談は東海道中膝栗毛の小田原のくだりにも書かれているが、当時の江戸は蒸気浴が一般的であったので五右衛門風呂は珍しかったのだろう。不便かつ危険にも思えるが、湯がさめにくいという利点もある。栃木県では、大きな農家を中心に昭和中頃まで五右衛門風呂が見られた。
その後に普及するのは、火を焚くための釜と煙突を備えた木製の風呂である。釜の形状からひょっとこ、鉄砲などと呼ばれたが、隅に置かれた釜に注意すれば、やけどの心配はない。
お風呂から見えてくる家族の役割と知恵
当時の燃料は薪である。クヌギやナラが用いられた。湯がわくまでには相当な時間がかかるので、風呂焚きは農作業に出ない年寄りが行った。水は嫁や子どもが井戸からくみ上げて運んでくる。一往復や二往復ではすまないので、かなりの重労働であった。
風呂の番も重要で、湯加減を確認して、ぬるいようなら薪をくべ、熱ければ井戸水を足した。これは嫁の仕事であった。ボタン一つで浴槽に湯が入り、電気やガスで好みの温度とし、そして追い焚きまでできる現代の風呂とは大きく異なる。
風呂に入る順番には決まりがあった。最初、すなわち一番風呂に入るのは一家の家長、次に長男、最後が嫁である。この頃になると水は減り、温度は下がり、垢などの汚れが目立つようになる。当時は洗い場がなかったからなおさらである。残り水は馬屋に敷いた落ち葉にかけたり、堆肥や田畑にまいたりした。つまり肥料となった。そのため農家の風呂は母屋の入り口か馬屋の横に置かれていた。
暮らしは変わっても、お風呂は家族をつなぐ場所
風呂は時代とともに大きく進化している。家事の手間を省くとともに、より快適な空間へと変化しているようだ
1965年、栃木県宇都宮市生まれ。宇都宮大学大学院教育学研究科社会科教育専修修了。栃木県立足利商業高等学校、同喜連川高等学校の教諭を経て、1999年より栃木県立博物館勤務。民俗研究、とくに生活文化や祭り、芸能等を専門とし、企画展を担当。著書に『栃木民俗探訪』(下野新聞社)などがある。






